女もまた監督である。坂本あゆみという新しい衝撃。 —矢田部吉彦
2014年のカンヌ映画祭は、審査員長に任命された史上唯一のパルムドール受賞女性監督であるジェーン・カンピオンが「世に女性監督が少なすぎる」と発したコメントとともに、幕を開けた。一方、それとは全く無関係の局面で、筆者は海外の映画業界誌から取材を受け、日本の映画界における女性監督の少なさに対してどう思うかと質問された。前者のコメントは統計的に事実なのであろうが、後者の質問には困惑した。何故なら、筆者が日頃から感じていることと全く逆だったからである。女性監督の数が少ないどころか、興味を魅かれる作品がことごとく女性監督によるものばかりで、一体これはどうしたことだろうと数年前から思っていたほどである。河瀬直美、西川美和、井口奈己、横浜聡子、タナダユキ、ヤン・ヨンヒ、呉美保、瀬田なつき、熊谷まどか、天野千尋、など、次作が常に楽しみな気鋭の女性監督を列挙すると、あっという間に両手に余る。映画の出来に男も女もないだろうというのはある意味で正論としても、日本映画の高品位性を担保する存在が多く女性で占められるという状況もこれまた事実である。難しいのは、一種のムーブメントとして彼女らの結束を促したい気もする一方で、女性で固まるとジェンダー的な側面が濃くなり、フェミニズムなどどうでもいいと思っている監督(が絶対いると思うのだけど)が不本意な扱いをされてしまうリスクを想定してしまうことで、大きなお世話なのであろうが、男である筆者としては余計な気を遣ってしまうのだ。女性としての監督を論じたいけれど、性別を抑えて作品本位で議論をするのがポリティカリー・コレクトネスなのだろうという思いもちらつく。かくして、カンピオン氏の指摘については、とても議論がしにくいのである。従って本稿では、日本では刺激的な女性監督がとてもたくさんいて、その数は男性監督を決して下回るものではありません、ということを指摘するにとどめたい。
さて、坂本あゆみである。予備知識なく『FORMA』を見始めたとき、この作品の監督が女だったら怖いなと鑑賞途中で思っていたら、はたして女性監督だった。映画を見ていてそんなことを思った経験は滅多にない。どうしてそう思ったのだろうか。学生時代に友人であった二人の女性が、数年振りに再会し、その力関係が微妙に変化していく様をじっくりと描いていく内容は、不穏な予感を見る者に抱かせる序盤だけで、すでにおそろしい。やがて、嫉妬や恩讐といった感情を幾重にも織り込んだ展開が、ふたりの女のパワーバランスを動揺させていくに至り、この心情のリアリズムは男には書けないと思うよりはむしろ、女をここまで追い込めるのは女にしか出来ないはずだ、この監督はおそろしい、そして女はこわい、という恐怖を筆者に抱かせたのだ。女の心は読めない、という男が(そしておそらく女自身もが)根源的に抱く恐怖心を、坂本あゆみは煽ってくる。劇中の女たちが互いに互いをマニピュレートすると同時に、観客もマニピュレートされていくのだ。
そこで坂本監督が巧みに操るのが「時間」である。「過去に何があったのか」と、「この先が起きるのか」のふたつの興味を同時にひっぱることの出来る映画は決して多くはない。ワンシーン・ワンショットは映画の時間を現実のものに近づけるリアリズム手法のひとつだが、過去の感情の残滓が色濃く漂う長いショットを注意深く繋いでいくことで、『FORMA』の各シーンには過去と現在が同居し、不穏な未来を予感させる恐怖へと繋がる。そして、監督のもうひとつの特徴である「空間の扱い方」から伺えるのは、フレームの内と外の境界線を意識させることで逆に二つの世界の差を無くしてしまうようなアクロバティックな試みである。キャメラが世界の全ての事象を包含してしまおうと主張しているような動きを見せる公園のシーンと、固定フィックスの必然性が支配するクライマックスのシーンを並べてみると、あの世とこの世がメビウスの輪のように繋がったような錯覚に陥り、観客は錯乱さえするだろう。
女の心理を女の側からアプローチできるメリットを最大限に活かしつつ、「時間」と「空間」を自在に操る術を携えた坂本あゆみは、女であることと、性別を超えた優れた演出家であることとの両面を備えた、堂々たる「女性監督」の仲間入りを果たした。早くジェーン・カンピオンに報告せねば。
矢田部吉彦
東京国際映画祭プログラミングディレクター